発症からの経過(転院時のカルテより)
3月21日からの頭痛や目の奥の痛みに始まって、歩行困難や失禁などが出現したため救急車を呼び、母は、3月27日に救急搬送されました。検査の結果、脳出血(右側頭葉)が確認され即入院しました。
入院後10日目くらいの母は、夢を現実の事と認識したり、おかしな発言が多くみられました。これが脳の機能障害なのか、あるいは窮屈な環境の変化によるストレスなのか、よくわかりません。私だって、いきなり時間感覚も季節感覚もない真っ白い壁の病室で、ベッドに固定されたら、気が変になると思いました。
また1ヶ月間、治療のためであろうと寝たきり状態にさせられたら誰だって筋力低下します。母の足腰はすっかり弱り、自力歩行は困難になっていました。
脳のMRIや脳血管造影など一通りの検査を終え、これ以上悪化の可能性は少ないという医師の判断で、4月21日、後遺症としての軽度の麻痺、認知機能低下への訓練を目的に回復期リハビリテーション病院(以下、リハビリ病院)に転院しました。
母は、「治療のおかげで命拾いした」「生かされた人生に感謝しなければ」と言っていましたが、この先このまま足腰が弱ったままだったらと、家族皆、気が気でなりませんでした。
リハビリ病院での様子
リハビリ病院は、命の危険を脱するための治療を終え、自宅や社会に戻ってからの生活を少しでも元に近い状態に近づけるためのリハビリを専門に行うところで、病院というよりは入居型の治療院というのが私の印象です。
「お母さんは、ここで軽度の麻痺や認知機能低下に対しての訓練を目的に数ヶ月入院になります」と言われました。
母が転院したリハビリ病院は、自宅から車で5分もかからないところにあります。救急病院が自宅から1時間以上離れていたので、母の気持ちはほぼ自宅に戻った感覚のようです。家族にとっては、それが何よりの救いです。
でも、コロナ下で面会はできません。代わりに病院側の配慮で希望者にはオンラインの面会をさせてくれます。予約を入れて、指定の日時にパソコン画面越しに対面です。画面に映る母は、認知についても少しずつ改善が見られているようですが、時折、想定外の言葉が返ってきます。
「そういえば、この間、私の弟が桜木町駅(横浜市にあるJRの駅)にいてばったり会ったのよ…」と母が言ったときには、私は一瞬時間が止まりました。以前横浜に住んでいたのですが、当時の古い記憶がミックスしていたようです。
転院後1ヶ月して「経過説明をするので来院してください」
と病院から連絡がありました。
母との1ヶ月ぶりの対面です。母は、歩行器を押しながら、介護士に見守られ面会室に現われました。血色も良くなっていて表情も穏やかだったので、ひとまず安心です。おかしな発言も、少なくなりました。
介護認定について
それから間もなくして、母の介護度の見直し手続きをとりますと連絡がありました。説明を聞くと、認定調査員が母を訪ねて心身の状態についての聞き取り調査を行うとのことです。
「介護度認定は住いの市区町村によってバラツキがある」
という記事が、2020年3月7日の日本経済新聞で報道されました。「介護認定審査会が非公開であることも問題」としています。
介護度によって受けられるサービスが違います。介護度とは、介護の必要性の程度をあらわすもので「要支援1、2と要介護1、2、3、4、5」の、7つの段階に分けられています。要支援とは、簡単にいうと日常生活で多少の支援があると自立できる状態。要介護は日常生活で支援がないと自立できない状態と私は理解しています。(審査会が非公開なので推測しかできません)
私は、地域の仲間にアドバイスをもらい、立ち会うことにしました。以下は、そこで得た教訓です。
(1)必ず家族が立ち会うこと
プライドや思いこみで、できないことを「できる」と答えないよう見守っていました。母の場合は記憶違いが心配でした。
(2)気づいたことは遠慮なく伝える
調査員は母の日常を知らないので勘違いもあります。気づいたことや不安に思っていることを積極的に伝えました。
(3)できるだけ具体的に伝える
ただ困っていると状況を伝えるのではなく「足腰が弱りトイレは手すりがないと立ち上がれない」と具体的に伝えました。
入院前の母は、自立ができていたので軽い方から2つ目の要支援2でしたが、今回は4つ目の要介護2に変わりました。
ケアマネジャー(ケアマネ)さん探し
もう1つ、今回決心したことがありました。それは、今までのケアマネさんを解約することです。ケアマネさんとは、介護保険制度での正式名称は「介護支援専門員」。母のような要介護者が、心身の状況に応じてサービスを受けられるよう、ケアプランの作成やヘルパーさんやデイサービス等との調整を行ってくれる方です。
今の住まいには2年半前に引っ越しをしてきたのですが、その時は頼る所もなく、役所にお任せでケアマネさんを決めるしかありませんでした。
暮らし始めてだんだんと地域の仲間もできました。その仲間の情報を元に今回は、母と私たちにとって信頼できるケアマネさんを探すことにしたのです。学校探し、仕事探し、家探しなどと同様に、これ、とても重要です。
母の病状の回復ももちろんですが、これから私たち家族とともに母を見守ってもらうことになるケアマネさんを見つけられたことが、何よりこれからの母と私たちの生活にとって安心です。
母と私たち家族が、いくら理想のケアプランを描いても、それを可視化して実行するにはケアマネさんの実務が必要です。ヘルパーさんの手配、デイサービスの手続き、介護用具の補助申請。これらを担ってくれるのはケアマネさんです。
母のリハビリのゴールはもうすぐのようです。これからは母の新たな暮らしの始まりです。どんなスタートができるのか? どんなトラブルが潜んでいるのか? 試行錯誤ですが、そのプロセスも含めて母を見守りつつ、介護の方程式を解いてゆきたいと思います。(続く)
1959 年生まれ。大学では工学部電子工 学を専攻。1984 年大卒後IHI に入社。火 力発電所の制御設計に携わる。1986 年3 月にIHI を退社。4 月から頭とお金を提供 してくれた創業者柴田さん、体と汗を提 供した私、他1名でほんの木設立の準備が スタート。1986 年6 月に、株式会社ほん の木創業。2003 年より代表取締役。