オランダでは1985年まで4歳から6歳までの子どもたちの幼稚園があった。幼稚園は、もっと前には「保育学校」と呼ばれており、この名前からもわかるように、そういう小さい子どもたちのための「学校」(教育の場)があったというのが興味深い。当時は、4歳児5歳児には就学の義務はなかった。
そこで働いている保育士(当時幼稚園で働いているのは女性の保育士だけだった)たちは、皆、幼児教育養成校(Kleuter Opleiding School: KLOS)で訓練を受けて働いていた。この養成校に特徴的だったのは、保育士たちが、特に、子どものニーズに目を向け、そのためにテーマ教育の形式をとるように教えられていたことだった。養成中は、発達心理学が重視され、遊びの道具や遊びの形式にも多くの配慮があった。まさに、幼い子どもたちの教育を行うための、本当の意味での養成が行われていたのだ。
幼稚園を終えると、こどもたちは小学校に入った。小学校で、こどもたちは学年クラスに分けられ、みんなが同じ教育内容を受ける。そして12歳になると、こどもたちは中等教育へと進学していた。
しかし、その頃、オランダ政府はすでに新しい教育法を設定すると決めていた。幼稚園と小学校をそれぞれ別個にしておくのではなく、一つの学校として4歳から12歳までの子どもたちの「基礎学校」が作られる予定だった。「基礎学校」で、子どもたちは、それぞれの学びのプロセスを(断続的ではなく)切れ目なく(継続的に)経験できなければならず、その学習は、(*基礎学校の卒業時に目指される)最終的な到達目標に向けて行われることとなる予定だった。
わたしの教育者としてのキャリアは、1975年、徴兵制による兵役を終えてロッテルダム市の北部の学校で働き始めた時に始まった。当時わたしが担任していたクラスは、まあ、うまくいっていた。こどもたちは楽しんで学校に来ていた。多分、その学校では、それまで、あまりワクワクするような授業やアクティビティをしていなかったからだろう。わたしは、それを変えようとしていた。
そこでわたしが教員として働いたのはそれほど長い期間ではなかったが、その間に、初めて保護者の学校参加が始まり、わたしは保護者たちにプロジェクト学習やワールドオリエンテーションで協力してもらうようにした。保護者を学校に招いて話をしたり、家庭訪問をしてコンタクトを取るようにもした。また、子どもたちと一緒に学校の外に出て探求活動もした。その学校に隣接していた精神障害児のための特殊学校に連絡して、わたしは自分の学校の子どもたちを数人ずつ伴って、その学校を訪問するようにもなった。
クリスマスには、学校の保護者たち全員のために立派なクリスマスのミュージカルも開いた。舞台装置や衣装は、子どもたちみんなで一緒につくった。わたしの熱心な働きぶりは、私についてのポジティブな評価に繋がり、その噂は(経営者である)学校理事会の人たちの耳にも届くようになった。そのうち、ロッテルダム市内にあるメースター・バアルスクールという学校でスクール・リーダー(校長)にならないかという打診を受けることとなった。それはロッテルダムのエイセルモンドと呼ばれる地区にあった小さな学校だった。
その学校では、何度も校長が交代しており、落ち着かない状態になっていたのだ。その学校の校長になってもう一度落ち着きを取り戻してほしい、というのが私への依頼だった。でも、同時に、この学校が特徴としてきたオルタナティブ的な要素を維持してほしい、とも言われた。
1977年の私の校長就任は、そういうわけで、最初の学校での印象が良かったから決まったようなものだった。というのも、私は、校長になるための特別の養成講習を受けていたわけではなかった。それに、校長にならないかと打診された時まで、私には、校長になりたいというような野望も持っていなかった。でも、校長になれると知ったら、それは、素晴らしいチャレンジになるだろうな、と思えてきた。
そういう事情だったので、校長としてからの最初の数年間というもの、私は、純粋に自分の感覚だけを頼りに校長としての判断を下していかねばならなかった。ただ、任命された時に、何かわからないことや問題がある時には、近くにいる誰か他の校長にコンタクトを取るようにね、という助言だけは受けていた。
当時は、校長も、どのクラスかで子どもたちを指導するのが常だった。大抵は、最上級生の指導にあたった。私もそうしていたので、校長の仕事に避けるのは、一週間のうちに、ほんの数時間だけだった。
前の学校で教員として働いた経験はここでも生きた。私は子どもたちとすぐに良い関係を結び、また、良い関係であるように心がけ、子どもたちが楽しく学校生活を送れるよう、また、保護者が学校を信頼できるように努力した。
わたしは、校長として、なによりもまず、教職員チームと保護者の結束感を高めることを重視した。お互いの間に帰属感情があることがなによりも大切だと思ったのだ。子どもたちにとって良い教育ができる洗練された学校というものは、みんなで一緒に作るものだと思っていた。
幸い、同僚の中に、何人かの素晴らしい教員たちがいた。この人たちは、自分の仕事を愛しており、新しいことを試みるために一生懸命やってみようという覚悟もある人達だった。保護者たちには、ポジティブな形で学校での教育に関わってもらいたいと思っていた。教職員と保護者がみんなで一緒に行事を準備したり、プロジェクト学習を準備したり、お互いの情報をよく交換し合うようにするなどして、次第に両者の協働がうまくいくようになっていった。
保護者のために毎週ニュースレターも作っていた。学校の設立50周年の記念日には、教職員と保護者とが一緒になって、一週間まるまる使ってたくさんのイベントを実施した。そこには、すでに、お互いの帰属感情が実現していた。
教育内容については、(1985年に)新制度として幼児教育と併合し、再編された新しい基礎学校が始まることが決まっており、その新制度に向けてうまく準備していくことは、私たちにとって一つの挑戦課題であると思っていた。真から良い「基礎学校」を作っていきたかったのだ。そのために、制度が始まるよりも何年も前から準備を始めていた。
「教育は、生徒が、切れ目のない継続的な発達のプロセスを踏めるように企画される。教育は、その生徒の発達における進度に合わせられる」という法律上の文言に、私たちは注目した。
教員チームの同僚である教員たちは、一緒になって、そういう学校のあり方について、何度もブレーンストーミングを繰り返した。子どもたちの発達を切れ目なく支援する教育って、いったい、どんな形のものなんだろう? 子どもたちは、そこで、何をし、教員たちは何をしなければならないのだろう? 学校での仕事は、どう組織すればよいのだろうか? 保護者たちには、どう関わって貰えばよいのだろう?と。
「切れ目のない発達プロセスを継続できる」…一体、学校教育の中でどうすればそれを実現できるのだろう? 同僚たちと対話を続ける中から、私たちは、古典的なやり方を維持していたのでは、それを実現させるのは無理だ、ということに気づいた。異年齢のグループを作って仕事をすべきだとも考えた。さらにもっといろいろなことも思いついた。基礎科目の教え方(インストラクションの与え方)や学習の仕方も、これまでとは違う形を考えなくてはならない、子どもたちがたくさんのことをもっと自分で発見できるようにしなければならない、子どもたちがお互いに助け合ったり、刺激しあったりし、グループの中で起きていることに対して、自分たちで責任を持てるようにしていかなければ、といったことだった。
まず、私たちは、サークル対話を始めることにした。なぜならサークル対話をすれば、日頃、教室でよく起きていることや、時事など身の回りの出来事、さらに子どもたちの心の中にある問いや感情を引き出して、子どもたち同士が話し合うチャンスが生まれるからだった。
したいことは山のように出てきた。しかし、どのアイデアも、どのプランも、実際に現場でやり始めてみると、次々に、どうして良いのかわからないことが出てきてしまうのだった。それに、私たちは、一気に何かをして終わりというのではなく、自分たちの取り組みが長期にわたって持続するものにしたかった。
私たちが理想として考えているもの、ブレーンストーミングを通して引き出されてきたものを、なんとかうまく理論に翻訳することはできないだろうか、と教育サポート機関(*オランダに当時数十箇所あった、現職教員へのサポートと研修を提供する機関)の専門の指導者に助けてもらうことにした。数回の会合を重ねるごとに、私たちは、自分たちが考えているプランをサポート機関の職員に話し、サポート機関の専門の指導者が、質問に答えながら、私たちの考えを明らかにしていくというプロセスが始まった。サポート機関の指導者との2回目の会合が終わったときに、その指導者はわたしに、イエナプラン教育について聞いたり読んだりしたことはないか、と聞いた。
その人は、私たちがやろうとしていることと、イエナプラン教育との間には、どうも共通点があるようだ、というのだった。当時のわたしは「イエナプラン」のことなどまだ何も知らなかった。教員養成の時に一度聞いたかもしれない、というぐらいの気持ちだった。それ以上のことは全く何も知らなかった。当時学校にいた仲間の職員たちも同じだった。
その時以来、私たちは、イエナプラン教育の情報をもっと知らなければと、色々と探し始めた。情報を集めて読み進めてみると、そこにはたくさん共感できるものがあることに気づいた。イエナプランについて見つけたものは、私たちがお互いに話し合いを通して考えついたプランととてもよく合致していた。これで考えていたことの何もかもがお互いに噛み合ってきたぞ、そんな感じだった。
バラバラのパズルのピースが、置かれるはずの場所に置かれていった、という感じと言えば良いかもしれない。私たちが考えたプランを、現場の教室の子どもたちを相手に実践するためにはどうすればよいかが、そこにはすでに書かれていた。私たちが考えていたプランに対して、一つの良い理論、支えとなる土台を見つけた、という感じだった。
異年齢学級、お互いへのケア、サークル対話、みずから探求する子どもたち、保護者参加の重要性、これらは皆、私たちが引き出してきたアイデアと全く重なるものだった。
自分たちで思いついていたアイデアだけではなく、さらにもっとたくさんのことを考えるようになった。学校全体で遊びをすることの大切さ、学校の中で実施する催しの意味、教育のハートとしてのワールドオリエンテーションなどがそうだ。
この時から、私たちの話し合いの中で、ペーター・ペーターセンの仕事が重要な指針となった。私たちは、真のイエナプランスクールを実現したいと思うようになっていたのだった。
いまだに、教員養成では、イエナプラン教育への関心が薄い。教育学の講師と話し合って、わたしは、最近、教員養成大学の最終学年の学生たちのためにイエナプランの講習を始めた。もうすぐその第1期目が終わる。
学生たちは、イエナプラン教育が彼ら自身にとってどんな意味を持っているかについてのプレゼンテーションと第2学年にいる学生たちに対して自分が学んだことをプレゼンテーションすることになっている。また、講習機関中に作った自分たちのポートフォリオについても発表する予定だ。
学生たちの話を聞いてみると、彼らは、自分たちがこれまでに一度もイエナプラン教育について聞いたことがなかったことに驚いている。中には、もしもっと早くに知っていたら研究テーマにしていたのに、という学生もいる。彼らは、そういう教育の形が可能だということすら知らなかったのだ。
続く