第8話 生きるとは、変化し続けること(リヒテルズ直子)

驚きのゲストスピーカー

 多分今から15年ほど前のことだったと思います。

 日本からの視察者数人と、イエナプランスクールを訪れていた時でした。午前10時ごろ、その学校に到着すると、まだ30代の若い女性の校長先生がとても明るい微笑みで私たちを職員の休養室に招き入れ、まずは学校の概要を説明してくれました。30分ほどの説明が終わり、さあ、これから校内を見学するという時になって、その校長先生が、相変わらず微笑みながらこう言いました。

「実はね、今日は、特別のお客さんが来ているんですよ。ほら、そこから見えるでしょう」

そう言って、私たちがいた部屋の出入り口から見えるホールに、一人の年配の男性を囲んで上級生(4、5、6年生)たちがサークルを作って静かに話をしている様子を指し示しました。

「あそこにいる男性は、凶悪な殺人を起こした人なんです。でも、精神障害のための犯罪だと言うことがわかり、今は、TBSクリニックという、法定精神病院に収容されています。そこに収容されている人は、病状が安定してくると、時々、こうして社会復帰の練習のためにクリニックの外に行くことができるんです。今日は、この人に子どもたちが、直接、話を聞ける機会を設けているんです」

 そう聞いて、私は、思わず「ええっ?」と聞き返すほど驚きました。何しろ、校長先生自身、その場には立ち会わず、私たち訪問者の相手をしていたわけですから、、、。そして、

「でも、誰か一緒に同伴しているんですか、危なくはないの?」と聞くと、

「ほら、あの人の隣に女性がいるでしょ。彼女が付き添いできています。それに本人も薬を飲んでいるので大丈夫です」

と答えました。

 ホールに座っていたのは、この男性とその付き添いの若い女性、そして、この人たちと一緒に子どもたちだけでした。もちろん、校長先生は目立たず遠くから見守っていたのだと思います。

失敗は成長と変化のチャンス

 イエナプランを学んでいる人なら、きっと一度は読んだことのある「20の原則」。でも、原則8に書かれていることを、私は、初めて読んだ時に、どうしてこんなことをわざわざ書くのだろう、と思いました。それは、こういうものです。

「私たちは皆、公正と平和と建設性を高めると言う立場から、人と人との間の違いや、それぞれの人が成長したり変化したりしていくことを、受け入れる社会を作っていかなければなりません」

 人が成長したり変化したりするのは当たり前のこと、なぜ、それをわざわざ「受け入れる社会」などと書くのだろう、と思ったのです。

 でも、上のように、犯罪を犯した人が社会復帰する、そのために子どもたちが、その姿を見ながら学ぶという様子を見て、その意味がわかった気がしました。同時に、それに触れている20原則が、どれほど深いものかを改めて思いました。インクルージョンの本質に関わることなのです。

 人生の途上で、私たちは、何度も繰り返しさまざまな失敗を繰り返します。何かに挑戦したい気持ちとは裏腹に、まだ知らないこと、まだできないことがたくさんあるからなのでしょう。でも、一度失敗してみると、「ああ、そうか」と気づくことも多いですし、「こうしておけばよかったんだ」と自分の不用意に気づき、それがきっかけで、また、もっと注意したり、もっと準備をしてできるようになろうと努力するようになります。だから、失敗は、本当に何かを学ぶ上で、他に比べるものがないくらい素晴らしい教師でもあるのです。

 でも、そういう失敗を誰かからひどく非難されたり、笑いものにされたりしたら、それは、一生心の傷となり、そこから這い出し立ち上がる勇気を持つことがなかなか困難になるものです。

 もちろん、私たちは、取り返しのつかない失敗をしてしまった経験も心の傷として持っています。誰かが大切にしていたものを壊してしまった、誰かの心を深く傷つけてしまった、、、というように。でも、それでも、そこから学んでいます。取り返しがつかないかもしれないけれど、その経験はたくさんのことに私たちを気づかせてくれます。

 原則8を、そう考えながら読み返していくと、

「自分自身や、他の誰かが、何か取り返しのつかない失敗をしたとしても、それでも、あるいは、それだからこそ、その人は、大きく成長したり、大きく変化を遂げることもあるのだ。だから、人の失敗を非難してはいけない。人が失敗した時には、それを通してその人がまた学び直し変化していく姿を見守っていくことが大切なのだ」

と言っているように思えるのです。

 私たちは、誰一人として、他の人の失敗を指差して非難することができるほど失敗のない人生など送ってはいません。日本の諺に「人の振り見て我が振り直せ」というのと同じ。誰かが失敗しているのをみるのが辛いのは、自分の姿がそこに重なり辛くなることも多いものです。

偏見を持たず、いつも自分の目の偏りを拭うこと

 失敗をどうみるかということは、「偏見」をどう考えるかにもつながっていると思います。

 私たちは、兎角、自分の周りにいる人たちを、自分が捉えた目で、つまり自分の目というメガネを通して見てしまいます。人から聞いた話や噂、相手の地位や肩書き、表情や態度、着ているものや言葉遣い、などなど、偏見を促すものは山ほどあります。はじめから、「あんな人と話すのは嫌だ」と会話に入ることさえ避けてしまうこともあります。頭ではわかっていても、なかなか、偏見を拭うことは容易ではないです。

 でも、だからこそ、学校という場では、そういう偏見をお互いに持たない社会を目指して、子どもたちに「偏見」を持たせないように仕向けていく必要があるのだと思います。それは、大人たち同士が、また、大人が子どもに対して「偏見」を持たずに関わり合う態度から始まるものでしょう。

 学校ではよく「あの子は聞き分けが良くてなんでもできる子だ」とか「あの子はいつもよそ見ばかりしている」「あの子は、落ち着きがなくうるさい」「あの子は恥ずかしがり屋で臆病だ」というようなレッテル貼りが行われるように思います。でも、こうしたレッテル貼りは、そんなふうに外から決められたイメージでいつも見られてしまう子にとっては、何か、縄で心や体を縛り付けられたような気にさせるものではないでしょうか。

 かつて、ハーバード大学のハワード・ガートナー教授は、子どもたちの違いを尊重し、子どもたちを見る目を「できる子」「できない子」としないために、学校が伝統的に重視してきた言語や算数の力だけを基準とするのではなく、もっと広く子どもたちの発達を捉えられるようにマルチプル・インテリジェンスの考え方を提示しました。言語や数学の力の他にも、空間を捉える力、身体的な能力、自然と関わり合う力、音楽能力、人と人との関係をうまく促せる力、深く思考する力などがあるではないか、というわけです。これは、人間の発達を、認知的能力だけではなく、広く社会性や情緒の発達の観点から捉えようとする「全人的発達」の考えに基づいています。

 イエナプランでは、この考え方をよく使います。でも、その時に、必ず、マッチング(その子が得意とした才能に合わせて教え方を変えること)とストレッチング(その子のまだ発達していない能力の分野を引き出すように働きかけること)の両方が大事だと言います。

 私は、このストレッチングに目を向けることこそが、教育者の専門性だと思っています。「この子にはできない」と決めつけることではなく、「この子にもきっとできるはずだ」という信頼に基づく働きかけの態度です。

「生きているものとは変化し続けるもの」

 多くの新教育運動に影響を与えたアメリカの哲学者ジョン・デューイ。彼の代表的な著作の一つである「民主主義と教育(Democracy and Education)」の第1章の初めに、こういう言葉が出てきます。

“The most notable distinction between living and inanimate things is that the former maintain themselves by renewal”

「生きているものと生きていないものとの間の最も明らかな区別は、前者が、自分自身を再生によって維持しているということだ」

“While the living things may easily be crushed by superior force, it none the less tries to turn the energies which act upon it into means of its own further existence.”

「生きているものは、上位の力によって容易に潰されることがある。それにもかかわらず、それは、その力に抵抗しようとする自らのエネルギーを、自分がこれからも存在し続けていくための手段に変えようと努力する」

“Life is a self-renewing process through action upon the environment.”

「生命とは環境に対する行為を通して自己再生していくプロセスである」

 私たちの爪や髪は止まることなく伸び続けています。皮膚や内臓や、ありとあらゆる身体の部分が、生きている間、細胞組織の再生を繰り返しています。今生きている私たちの体は、どの部分をとっても、10年前の自分とは異なるものだと思います。

 同じように、この世界で生きていくために、私たちは、学んでいます。世界も変化している。その変化している世界に適応して、自らが、どうすればうまく生きていいけるだろうか、と学んでいます。

 教育者とは、子どもたちが将来自分の力で生きていけるように、その土台を作る役割を持っています。しかも、教育者自身も生き続けており、その姿を子どもたちは見ています。だからこそ、教育者は、自分自身に対しても、また、他者に対しても、生きる道を塞ぐようなことをしてはいけないのです。それは、自分に対しても他者に対しても変化を受け入れることです。皆、自分なりに持って生まれた能力と生まれ落ちてきた環境という条件と戦いながら、それでも、生きるために自分を変化させているからです。

 教育者が子どもを偏見を持ってみること、子どもたちの失敗を非難したり侮辱したりすることは、子どもたちの生きようとしている力を乱暴にも壊していることに他ならないのです。(続く)

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