第3話 異年齢によるファミリーグループ 豊かな学びの環境

 こんな情景について、多分、誰もが思い当たるのではないだろうか。

 教師が、子どもたちに何かを教えようとして、一生懸命努力している。一度説明し、またもう一度説明を繰り返す。でもそれでもわからない様子なので、さらにもう一度、別の方で…。けれども、子ども、つまり生徒は、自分が理解できないのを恥ずかしく思い、口には出さないが、からだ全体で「わからないんだ」と言っている。

 そこに、あるクラスメートがやってきた。その子が、わからなくて困っている子の様子を見て、こう問いかけてきた。
「ボクが説明してみてもいい、先生?」
 いいとも、もちろん。

 そして程なく問題が解決してしまった。たった一言二言の説明で十分だった。困っていた子の顔に笑みが戻り、嬉しそうに、また、その難しい問題に取り組み始めた。

 こういう経験を私は何度もしてきた。初めに、私は、自分が何かを説明する方法が悪かったのではないかと考え直してみた。説明が難しすぎたのだろうか、不適切な言葉を使っていたのだろうか、子どもの質問によく耳を傾けていなかったのかなあ、と。どの子もみんな、自分がしている説明を聞いてわかるようにしてやらなければならない、どの子もみんな課題をうまくやり終えるようにしなければ、と何度も繰り返し繰り返し努力したものだ。

 でも、そこには解決策はなかった。

 私は、子どもというものは、お互いからとても多くのことを学ぶものだという事実に、ゆっくりとだが確信を持つようになった。子どもたちは、他の子が何かをしている時に、どんなふうにしているかとお互いのことを観察しているものだ。そして、一緒にやらせてくれと言ってみたり、練習してみたり、もう一度聞き直してみたり、これでいいかどうかと相手に確かめたりしている。

 このことをペーターセンも、自分が通った北ドイツのグロッセンヴィーへという小さな村の学校で経験していた。その学校には一つしかクラスがなく、すべての子どもたちが、一つのクラスに一緒に座って学んでいた。ペーターは頭の良い子で、自分の周りの子どもたちの様子をよくみていたし、先生が年長の子に何かを説明している時には、その説明に耳を傾けていた。
 彼は、年長の子どもたちが仕事に取り組んでいる様子をよく観察し、たくさんのことを学ぼうと自分でもベストを尽くしていた。12歳になった時、ペーターの父親は、ペーターが、一家の長男として、家を継いで農家で働くべきだと考えた。しかし、幸いなことに、彼が通っていた学校の校長先生と村の教会の牧師が、ギムナジウム(※エリート養成校)に進んでもっと勉強できるようにと勧めてくれた。そして、ギムナジウムでも、ペーターは、とても優秀な生徒だった。

 子どもとはお互いから学ぶものだということを確信していたペーターは、子どもたちが、学年別のクラスに座るのではなく、ファミリーグループという異年齢学級の中で共に学び、共に生きるというコンセプトを思いついた。ファミリーグループで、子どもたちは、本当に多くのことをお互いから学ぶことができた。ただお互いから学ぶというだけではなく、色々と異なる社会的役割を経験することができた。年少の子は、多くの助けを求めなければならないが、年長の子は、逆に多くの助けを与える立場になる。

ペーターセンは「小さなイエナプラン(1927)」の中で、
3年の開きのあるファミリーグループには10の利点があると書いている。

1. 年齢による違いと発達による違い。それを通して子どもたちは、お互いから多くを学び、お互いに対して多くを教えることができる。そこには、必ず、子ども学的に見て、あるいは、教え方の点で、リーダーになるような子どもたちが見つかる。

2. 3つの異なる年齢の子どもたちがいるというのは、お互いに対して、弟子、熟練者、師匠として関わるということだ。それぞれの子どもが自分の独自の役割を持っている。

3. 秀才の子どもが必ずしも最もよくできる子どもであるとは限らず、そのためにそういう役割期待に応えなければならないということがない。できる子どもでも、グループの中で最も年少の立場にある時には、年長であるために自分よりも良くできる子どもに合わせなければならない。

4. 良いリーダーシップを発揮できる子どもたちも、それぞれのグループの中で新しく立場を見つけ、そこでのリーダーの役割を新たに学ぶ

5. 毎年3分の1の子どもたちが交代するのは良いことだ。3分の2の子どもたちがそこに残って、そのグループの良い伝統を守ることができるからだ。

6. 新しく入ってくる3分の1の子どもたちは、グループに新しい刺激をもたらす、つまり、「新しい血」を持って入ってくる

7. 年少者のグループは、新来者ばかりにならないようにしなければならない、グループのまとまりが、自然な形でそこに残ることが望まれる

8. 教員は、古い意味での教師ではいられなくなる。教員は、もっと子ども学に通じた、そのグループの子どもたちのリーダーになるのだ。

9. そこでは、自然な形で、社会、すなわち、学びの社会が生まれる。年齢に従って分けられる学年生のグループにすると、生徒たちは、そこで、主として、<生徒>とみなされはするが、一人の人間の子としてはみなされない。

10. ファミリーグループでは、伝統的な単純な意味での勉強のためだけの学校とは異なり、何よりも、(*人間の)子を育てるということ、そのものが起きる

 さあ、周りをよく見渡して、子どもたちが一緒にいる様子をよく観てみるといい。そこで何が起きているかを。子どもたちは、観察することで学び、真似をすることで学び、試みることで学んでいるはずだ。

 私が妻と一緒に、ある日、孫たちを連れて外出した時のことだ。孫のセッペがトイレに行くと言い出した。はて、セッペは男子用の便器の使い方をもう知っているのかな、どうしよう? そう思っていたら、2歳年上のセッペの従兄弟が「おいで。僕がセッペと一緒にいくよ。僕もトイレに行きたいから」と言って、セッぺを連れて一緒にトイレに行ってくれた。

 そうやって学ぶものなのさ!
 

 セッペは、自分もジッパー付きのズボンを履きたいんだって…。(続く)

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