ピラミッドの頂点ではなく、荒波で舵を握る船長
学校が快適で、風通しの良い、インクルーシブな場であるかどうかは、校長次第。学校を船にたとえるなら、船長である校長は、やはり、学校の質の大きな決め手です。昨年10月3日に行われたオンライントークショーで、ヒュバートとフレークが口を揃えて語っていたことでもあります。「良い学校の条件は何?」という質問に、二人は、「何よりも校長の質だ」「1に校長、2に校長、3、4がなくて5に校長だ」と答えていました。
学校をただ表面的に安定させるためだけであれば、それは、強いカリスマ的な校長でもかまわないのかもしれません。有名な学校には、名物校長がよくいます。でも、イエナプランが目指しているような、学校に関わる人々が皆インクルーシブに受け入れられ、学校が、生徒・保護者・教職員・そして地域の人々の意思も反映した民主的な組織になるためには、ただ、一見「魅力的な人格」の校長が、組織のトップに立っているというだけでは不十分、場合によっては障害であるとさえ思います。
日本や中国など、東アジアの国々では、つい最近まで、組織管理ではピラミッド型の管理が当然と考えられてきました。何か、他の人よりも多くのことを学んできた人、いざとなったら決断力を発揮して集団全体をグイッと引っ張っていける人です。
こういうリーダーは、かつては、ヨーロッパ社会でも普通だったし、カトリック教会などでは今も法王がピラミッドの頂点にいます。どうやら、多数の人たちを秩序良く一つの方向へと動かしていくためには、こうしたリーダーが全体を「統率」して引っ張っていく形が最も効率的だと見られていたのでしょう。
確かに、人望あるカリスマ性の強いリーダーは、ときには大きな業績につながる組織経営に必要な存在なのかもしれません。けれども、誰も彼もがカリスマを持っているわけでも、組織にいる全ての人の人望と信頼を勝ち取れるわけでもないことを思うと、むしろ、こういうリーダーの在り方には問題の方が多いと感じます。
こうした一人の、または一部の人への権力の集中が、組織の中での富や権利の配分を歪め、一部の人の苦境や不満を生んだり、世襲制によって必ずしも本当に人格的に信頼のおける人ではない人がリーダーの地位を継承してしまったり、ということは、周知のことです。フランス革命は、だから起きたわけですし、元はと言えば、こうしたピラミッド型のリーダーシップへの対案が民主制だったのですから…。
革命を経て生まれた近代の民主制では、色々な立場の人が、それぞれの立場や視点からの考えを出し合い、話し合い(議会=Parlamentという言葉は「話し合う場」という意味です)、誰か偉い人の命令ではなく、自分たちで自治的・合議的に社会の秩序を守る法律を決める(議会はだから立法府と呼ばれています)ことになっています。
近代の公教育は、実は、こういう社会がうまく機能し、将来、その社会に参加する人たちが、まだ見ぬ新しい問題を、自分たちの力で解決しながら、社会をより良いものに変えていけるように、という考えから生まれたものです。
それにもかかわらず、近代の到来とともに、国家主義が広がり、産業化と軍事化が進んだヨーロッパ社会では、この、当初の公教育の目的は二の次にして、生徒たちを工場の歯車、産業化のマンパワーとして捉え、生徒に発言権を認めるどころか、上からの強権で「国家のために命を賭す」兵士として育てようとしてきたのです。
イエナプランを創始したペーターセンだけではなく、新教育運動を起こした人たちは、この、近代の学校教育の矛盾を指摘していました。子どもたちの幸福のためには、一人ひとりの子どもの個性を認め、それぞれの個性に基づく協働を学び、民主的社会に主体的に参加し関与する市民を育てるべきである、と。
そうだとすれば、そういう学校で、民主的シチズンシップを育てる教職員や保護者は、この考えに見合った行動を自らしていなければならないはずです。
多分、それは、ピラミッドの頂点に立って「自分がなんでも知っているから俺についてこい」というリーダーではなく、毎時毎日変化する風や波や光を敏感に捉えながら、乗組員である教職員と、乗客である子どもや保護者が、全員無事に目的地に辿り着けるように、巧みに日々の出来事に対処し、なおかつ、方向を見失わずに航海を続ける船長のような存在であると思います。
早い話、イエナプランのグループリーダーが、グループの子どもたちの主体的な力を生かしながら、全体を見守り、大人の経験を通して安全と快適を守っていくのと同じように、スクールリーダーは、教職員や保護者や地域の人たち全体を見守りながら、どの人も皆、自分たちの主体的な力を生かし、お互いを尊重し合える集団(=学校共同体)となるようにファシリテートしていく人でなければならないのです。スクールリーダーと教職員の間の関係は、グループリーダーと生徒たちとの関係と同じで、そうでなければ、グループリーダーたちは、正しいリーダーシップで子どもたちを指導していくことはできないはずなのです。
でも、このことが、案外、忘れられている。日本だけでなく、オランダでも。イエナプランスクールと名乗っていても、です。学校は、本当の大きな海を、高潮や嵐と出逢いながら航海しているわけではないからなのかもしれません。でも、学校は、国や自治体から、また、保護者や地域から、さらには、子どもたちが抱えている問題など、いつも大小の風を受け、様々な関係者の要求のために、本来目指していた方向がなんであったのかを見失いがちな場所ですし、管理職者たちがつい近視眼になって遠くに見据えていたはずの目的地が見えなくなったり、様々な方向から矢のように飛んでくる批判や意見のために保身に陥りがちな場所です。民主的な市民を育てているはずの学校で、封建時代のような強権行使や排他的で誰の言葉にも耳を傾けないという管理が、ついうっかり始まってしまうのです。
でも、そんな学校は、まるで悲しみに包まれているように活気なく、疲れて顔色も悪く表情も暗い不服そうな職員や子どもたちに満たされた学校になってしまう。
では、イエナプランが目指しているような、インクルーシブで民主的な学校共同体を生み出し、率いるリーダーには、どんな条件が求められているのでしょうか。
私が出会った校長たち
オランダで、私は、実に色々な学校を訪れてきました。そして、いい雰囲気の、うまくいっている学校には、必ずと言って良いほど、オープンで気さくな、そして、同僚の一人一人、生徒の一人一人、保護者の一人一人を、とても大切にするリーダーがいました。それは、イエナプランスクールに限ったことではなく、むしろ、「拙い校長のいるイエナプランスクールよりも、良い校長のいる普通の学校の方がずっといいな」と思っていたくらいです。
そういう学校の校長は、見ず知らずの外国人である私が、外国から視察団を連れて訪問したい、と言っても、すぐに「いいよ」と受け入れてくれましたし、そうやってやって来る訪問客が、自分の学校についてどんな感想や印象を持つかについても、心から好奇心を持っているという風でした。
●生徒人口の中に移民が5割も占めているハーグ南部のどちらかというと貧困層の地域のイエナプランスクール「フローテベア」の校長。
●高学歴者や研究者が多く住むライデン郊外の小さなイエナプランスクール「デ・クリング」に40年近く勤めてきたという校長。
●生徒の100%が外国人、しかも、紛争で国を追われ命からがらオランダに逃れてきた難民の子どもたちがたくさん通うフレネスクール「パークスクール」の校長。
●ハーグの都心にあるプロテスタント教会立の学校で、イスラム教や他の宗教の子どもたちをインクルーシブに受け入れていた校長。
●自らもスリナム共和国の出身で、オランダに来るまでに幼い年齢で心や体が傷ついた難民の子どもたちを受け入れ、オランダ語のできない保護者たちを招き入れて、少しでも子どもたちの発達が滞ることのないようにと、副校長と協力して、独自のカリキュラムを進めていたカトリック教会立の小学校「レインボー」の校長。
●また、我が子たちが通っていたヘンゲローという田舎町にあった一般学校協会立の小学校で、前任の校長への不信で生徒数が減っていた学校を立て直すために来て、実にエネルギッシュに、誰に対してもオープン、保護者の力をうまく利用している校長でした。
私が出会ってきた校長たちに共通しているものは一体なんだったのでしょう?
これらの校長たちの共通点を並べていくと、インクルーシブで民主的な学校を生み出すためのスクールリーダーの条件が自ずと現れてきます。
良いスクールリーダーの7つの条件
(1)オーセンティシティ(生き方と教育理念との一致・言行一致)
まず何よりも、その人の生き方が、話している教育理念と一致していることです。わかりやすく言えば「言行一致」。その人が持っている人生観が、今の学校を選ばせたのだな、と感じられたり、その学校で起きていることに校長の人生観が透けて見えたりするものと言えば良いでしょうか?
今は退職して辞めてしまいましたが、デルフトのフレネスクールの校長だったニコは、この学校に通ってくる生徒の大半が非キリスト教徒の難民・移民であるという大きな障害にもかかわらず、一人ひとりの子どもに、本当に優しい眼差しで関わっていました。ニコは、それだけではなく、学校の保護者や自分の知り合いに呼びかけて、タンザニアの小学校づくりにも取り組んでいました。毎年学校の休暇になると現地の学校に行って、学校改革の支援をしたり、知り合いの歯医者さんに同行してもらい、現地の子どもたちの歯科治療をボランティアでやってもらうなどのプロジェクトも実施していました。
話をしていると、ごく普通の、どこにでもいるおじさんという気さくな人で、学校の中もあるがままに包み隠さず見せてくれ、「良いところを見せよう」という態度がかけらもない人でした。それだけに、この学校を訪問して、ニコの話を聞く日本からの訪問者が、つい涙を浮かべるということさえ、しばしばあったほどです。
(2)オープンで、学び続ける姿勢(社会の動きを察知し未来への展望を持っている)
上にあげた校長たちは、どの人も、話し始めると、まず「さあ、何が知りたいんだい、なんでも聞いてごらん」という言葉から始めていたように思います。「何を聞かれても構わない、答えられることには答えるし、答えられないことにはそういうよ」という態度でした。おしゃべりなオランダ人は、知っていること、自分が熱心に取り組んでいることについては、終わりがないほどたっぷり話してくれます。でも、知らないことには、はっきり「それは知らない、わからない」と言える。知ったかぶりをしないのです。聞いている方は、だから「この人は信頼できる」と思えるのです。
また、訪問を終えて帰ろうとすると、必ず「それで、この学校についてのあなたの感想は?」と聞いてきましたし、時には、「うちの学校について、あなたが見て何かヒントになるような助言があれば教えてください」という人もいました。
それに、日本の学校がどんな風なのか、そこから何か学べないか、と好奇心を持って話を聞いてくれる人もたくさんいました。知りたくて仕方がない、そして、私が日本の学校が行き詰まっていることなどについて話をすると、一緒になって考えてくれる、そういうこともよくありました。オランダだから、日本だから、という考えではなく、世界中の学校が変わらなければならない、と思っているからなのです。
彼ら自身が、規則に従って校長の仕事をしていればいい、と考えているのではなく、今の学校教育は根本的に変わらなければならないという思いでいるからなのでしょう。つまり、世界をより良いものにするために、自分は学校で未来世代と関わっているという、本当に教育者としての使命感があるのです。
だから、世の中の動きにもいつもアンテナを張っているという感じがしました。当然、移民や難民の子どもたちの多い学校では、保護者たちが抱えている問題を通して、世界のことに目を向けざるを得ません。なぜ、移民や難民がこうしてやってくるのか、そうした人の流れに対して、オランダ社会はどう対応しているか、なぜ人はインクルーシブになったり排他的になったりするのか、学校はこの子どもたちが自立して世の中に出ていく準備を本当にしているが、その時の社会はどんな社会になっていなければならないのか…と。
こういうことを考えれば、日々のニュースに耳を傾け新聞にも目を通しておかなければならないでしょう。それらのニュースに、自分はどうかと振り返ることも必要です。
こうした校長先生たちに、教育書ではなく、時事にまつわる話題の書籍を教えてもらったことも少なくありません。
大海を荒波を乗り越えながら目的地に船を運んでいく船長は、目的地の方角や天候を気にしながら舵を切り続けなければなりません。今の時代、船には、ナビゲーターの装置がついているので、星を見ながら方角を定める必要はないし、来る数日間の天候の予測も、サテライトのおかげでとても正確にわかります。海賊船がどこにいるかもレーダーで察知できるし、もしも襲われそうな時には、近海にいる軍艦や警備艦に援護を頼むこともできます。
でも、学校の校長はどうでしょうか? 国は子どもたちが将来のために身につける力を列挙し、保護者は保護者で別の目的を期待してくる。しかも、学校は独自の教育理念を持って進んでいる。教職員や保護者の間に対立が起きたり、不祥事も起きかねない。生徒が負傷したり事故に遭ったりすることもある…。さまざまな予測できない事態が毎日のように起きる学校には、ナビゲーターも天候の予測も、不意の事態に対する準備もありません。
だからこそ、起きそうなことを予測できる限りで予測し、その時に自分はどんな態度でいるべきか、どういう種類の問題には誰がどういう体制で臨むべきかを、可能な限り予測して準備しておかなければならないのです。船であれば「目的地」にあたる、学校のビジョンをコンパスとしてしっかり持っておくこと、そうできるためには、世の中の動きに敏感で、「創始者がどうしていたか」というよう原理・原則ではなく、自分が守ろうとしている学校のビジョンはなんで、それを職員や保護者や地域の人にどう説得できるか、そのための根拠はなんなのかを常にリフレッシュしながら持っていなければならないのです。
(3)変化を恐れない柔軟性(想像力と創造力)
ビジョンは、常に、状況の変化という荒波に晒されます。学校を作ってみても、みんながみんな意見が一致しているというわけではない。むしろ、意見が違うことの方が健全です。でも、状況に変化が起きれば、違う意見を持っている人たちが動揺したり、目的地であるビジョンを見失ってしまうことがよくある。校長は、その時に、コンパスをはっきり指し示すことができなくてはなりません。
けれども、そういう時によく起きるのが、「創始者の原理原則に戻る」という態度です。確かに、それは大切です。でも、それが、字義通りでなければならないという原理主義に陥ると、変化し続ける新しい状況には不似合いなものになってしまいます。自分の頭で考え、応じる態度が必要なのです。「創始者がその時にそう言ったのは、そこにどんな背景があったからなのだろう」と考えてみることは、現在の状況を見直す上で役立ちます。
何より大切なのは、「私たちは何をしたいのか? どこで、私たちは繋がっているのか」という「目的」を見失わないこと。その目的に合わせて手段を選ぶことだろうと思います。ところが、何年もやっているうちに、あるいは、「何をしたいのか」と自分自身の内面に問いかけることをいちいちしなくなってしまった結果、目的ではなく「手段」が先行してしまう。それがいわゆるマンネリ化です。
そうならないため、そして、学校の中がいつも活性化しているためには、日々新しい状況の中で、自分たちの「目的」を、今日、どういう形で実現しようか、と考え続けることだと思います。そこには、過去の事例についてその時の状況、また、未来自分たちが予測している状況への「想像力」が必要だし、それを元に、これから目的地に行くまでのシナリオを立て、そこで起きなければならないことを「創造力」豊かに作っていくことです。そんなことをいちいちするのか、と思われるかもしれませんが、人は、創造力を駆使しているときほど充実感を感じられることはないものです。
また、その時、生徒の一人ひとり、教職員の一人ひとり、保護者・地域の人・おじさんやおばさん、その人たちの知り合いなどなど、生徒一人ひとりが持っている広い人的ネットワークが持っているリソースが、どれだけ豊かなものであるかが見えてくるはずです。
「なぜ、これまでこの人たちに目を向けていなかったのだろう?」と「後悔」するほど、学校は豊かなリソースに恵まれています。でも、「目的」が明確でなければ、リソースは学校に混乱をもたらすだけです。やっぱり、オープンに自分のコンパスを示し、目的地がとこにあるかを示す船長がいてこそ、このリソースが生かされるものです。
(4)職員たちの盾(学校の独立性を守り試行錯誤できるゆとりを)
新しい理念の新しい学校だけに限らず、学校は毎年新しい人たちから成る組織です。毎年新しい生徒が入学し転入出します。生徒が変われば、保護者も変わります。本当は、オランダの学校のように、できるだけ長く同じ職員がいた方が組織は作りやすいと思いますが、日本の学校は職員の異動が多いので、教職員チームのメンバーも毎年変化しています。
そういう場所であるにもかかわらず、学校を、企業と同じように組織しようとする人がいますが、学校組織は、売り上げなどの成果さえ上がればいいという企業とは異なり、もう少し複雑で人間力を必要とする組織です。
しかも、生徒は日々成長して変化し、教職員も経験を重ねながら変化・成長しています。さらには、学校の周りの社会環境も変化し、子どもたちが将来出ていく社会を予測する要因も、継続的に変化しています。人も環境も、ありとあらゆるものが、変化の中にあり、その中で、教育活動が営まれているのです。
この事実を受け入れるならば、生徒はもちろんのこと、教職員にも、自分たち管理職者にも、試行錯誤のゆとりが必要であることは言うまでもありません。グループリーダーたちは、今年やってきた子どもたちを、まず「識らなければ」ならないし、その上で、どんな学習方法が相応しいのか、とやってみて試してみなければなりません。経験は確かに生かされるかもしれない。でも、国は、学校教育に、これまで経験したことのない新しいことも要求してきます。
校長先生は、職員がこうした外部からの要求に直接振り回されることがないように、自分で一旦吟味して方針を決める、つまり、職員たちの「盾」となることが求められます。保護者の要求に対してもそうです。いろいろな保護者の要求を、管理職者が聞き、それに責任を持って応じていれば、教職員たちは安心して教育活動に取り組めます。保護者の要求の中には、緊急性の高いものと緊急性が低いものとがあります。その優先順位を決めて、緊急性の高いものにはすぐに対処し、低いものには「いつまでに」と言う期間を要求者に約束して、ゆっくりじっくり対処する、そういう配慮も、安定した航海のためには必要です。
親鳥が雛鳥を外敵から守るように、リーダーは、ただ、何か失敗が起きたり、保護者から苦情が来た時に、いきなり教職員にその責を問うのではなく、教職員の力を見極めながら、問題の原因がなんであったのかを共に考え、失敗を学びに変えられるようにして欲しいものです。それが本当のリーダーシップです。
失敗を隠さない組織は、強い組織になります。嘘や失敗を隠さない子どもが、強い自立した人間になるように…。
(5)学校共同体づくりへの努力(保護者と地域とのコミュニケーション)
毎年、参加者が変化する学校は、それだけに、目的やビジョンが揺らぎやすい組織です。校長は、だからこそ、自分にとっては当たり前かもしれないビジョンを、常に、言葉にして新しい参加者に説明し、質問を受け、議論を重ねておくことが必要です。
オランダの学校は、一つ一つが異なるビジョンを持っており、保護者は常にいろいろな学校の中から自分の子どもにふさわしい学校を選びます。選ぶために、いくつもの学校を訪問し、オープンデーに参加します。ですから、校長たちは、毎年、たっぷりの時間を使って、保護者に自分の学校の方針や、そのための方法について説明しなければなりません。他の学校に比べ、自校はどこがどうよいのか、と。そして、その自校の理念を本当に理解した保護者が選んでくれてこそ、学校はうまく運営できていきます。
それもあってか、オランダの校長先生たちは、教育を語る時の語彙がとても豊富です。保護者たちは、説明会でどんどん質問をするし、回答が曖昧であれば、納得がいくまで質問し続け、議論を重ねるからです。そういう保護者を粗雑に扱ったり、回答を拒否するような学校は、保護者がそっぽを向いてしまいます。
一見厳しいようですが、このことは、見方を変えれば、校長にとってはまたとない素晴らしいチャンスでもあるのです。
「こんなことで、学力は大丈夫なのか」
「学力の向上はどう保証しているのか」
「教室の子どもたちがきちんと席に座っていないが、いったいどういう方針なのか。秩序はどうやって保っているのか」
「大人になった時に落ち着きがなくて集中力がないと言われたりしないのか」
「社会性や情動の発達が大事だというが、それをどんな方法で成長させているのか」
「学芸会の演奏はとても下手だ、隣の学校の方がよっぽどいい、なぜ、あんな学芸会しかできないんだ」
「授業の中に、遊ぶ時間があるというのはどういうことだ、遊んでいたら何も学べないじゃないか」
「グループ学習だというが、上級生が下級生に教えなければならなかったら、自分たちの勉強はいつするんだ」などなど、
学校の人気や良い噂、校舎や校庭の見栄えだけで選んでくる保護者たちが理解していないことは山のようにあります。それに、上から目線で答えるのではなく、本当に説得させるには、たくさんの語彙を用いた真摯な説明の努力が問われます。
説明の機会があればあるほど、校長は成長します。
(6)4つ以上の目(良いパートナーとのケミストリーによる協働)
ピラミッドの頂点にいるリーダーが危険である最も大きな理由は、そのリーダーの「独善」が起き、その結果民主的とは正反対の「独裁」が起きることです。
大嵐の中を航行している船の船長が、コンパスも見ずに、船の背後に来ている海賊船にも気づかずに航行を続けていたらどうでしょうか。あるいは、嵐の予報を聞き逃したまま、航行を続けていたら…。船に乗っている乗組員と乗客の命を預かっている船長としてはありえないことだと思います。
でも、学校の校長も、学校に来ている子どもたちの人生の始まりの大切な部分、職員たちがやりがいをかけて就いたはずの職業の大部分に対して、責任を持っています。校長は、船長のように、自分が独善に陥らないように配慮しているでしょうか? 安易に「俺に任せておけ、大丈夫だから心配するな」といっているだけではないでしょうか。
私が出会った素晴らしい校長たちには、ほとんどと言っても良いくらい、その人が心から信頼しているパートナーがいました。自分が何かの都合で学校に来れなくても、ちゃんと回していける人たちでした。それは、校長が、自分が見ているものだけではなく、パートナーの目を大切にしているからなのです。パートナーは、大抵、副校長か、教務主任、場合によっては、その学校に長く勤めてきた気心知れた同僚でした。
私たちは残念ながら、2つしか目を持っていません。また、その目は、頭の前にはついているけれど、後ろにはついていません。しかも、何かをよく見ようと、何か一つのことに近づけば、視界はぐっと狭くなります。だから、最低限、もう二つの目が必要なのです。学校で起きていることを、校長とは違う目で見ている人がいる、それは、マネジメントにとって、とても大切な安全弁になるものです。
でも、二人の関係が、ピラミッドの序列構造で、上と下の関係だったらどうでしょうか。上である校長はなんでも言いたいことが言えるけれど、下である副校長は遠慮がちにしかモノが言えないとしたら…。それでは、安全弁の役割は果たせなくなります。
私が見てきた校長とそのパートナーの間には、一種のケミストリー、つまり、相手を信頼し、相手の持っている自分にはない見方をとても大切にしている、そういう関係がありました。だからこそ、お互いが、率直に話ができている。相手が「いや、ちょっと待って、それは違うかも」と否定しても、感情的にならないで、相手の説明によく耳を傾けようとする関係です。
難民の子どもを何人も預かっていたハーグ子のレインボー小学校のジェシカ先生のことを、校長先生は「ジェシカになんでも聞いてくれ、学校のことは、ジェシカは全部知っているから」と言っていましたし、フレネスクールのニコ校長にも、一言言えばすぐにわかって代理ができる副校長の先生がいました。なんでも共有している二人がいれば、一人が何かの都合で学校に来れなくても、問題なく仕事を進めることができるのです。
4つの目、二人の先生が、パートナーとして、どちらも100パーセント責任を持って学校の運営に関わっていれば、そこには、耳も4つあるということです。教職員も保護者も、自分が話しやすいなと感じている方を選んで、アプローチできます。人間にはどうしても相性というものがあるので、二人いれば、保護者や教職員からのアクセスの窓口はぐっと広がります。そして、聞く耳、アクセスしてくる人の数が増えれば、学校の現状がよく掴め、運営方針も立てやすくなります。
(7)信頼と楽観に基づく委任(システムとしての学校)
良い校長とは、なんでも自分で引き受ける校長だという誤解がないでしょうか。
日々、生徒たちの抱える問題、教職員が抱える問題、保護者が抱える要求、地域の声などに囲まれている学校では、毎日のように解決しなければならない問題が溢れていることでしょう。解決できないまま、棚の上に置かれ、それが教職員や保護者の不満をさらに増大させる原因になっているという場合もあるでしょう。
このことを考えるときに、かつて、ヒュバートが語ってくれた言葉を思い出します。それは「校長は猿山になってはいけない」という言葉でした。自分は校長だ、頑張らなければいけないと思っている校長ほど、校内を歩きながら、どの教師かが「こんなことがあったんだけど、どうしましょうか」と相談してくる、生徒がいじめられて泣いている、学力が伸びない、ちゃんと指導を受けていないと心配している保護者が痺れを切らして校長室に駆け込んでくる…。
そういう度に、その人たちの問題を、「大丈夫、なんとかします」と自分が解決するから、と自分の肩に乗せていく。挙げ句の果てには、学校を歩けば問題がもたらされるだけだからと、次第に校内や教室を回ることをやめ、登下校時に校門で保護者と立ち話するのもやめてしまう…。つまり、すべての人が持っている問題(猿)を、相手の肩から自分の肩に置き換えて、自分自身が猿山のような状態になってしまって身動きもできない状態になっているということなのです。
では、猿山にならないためには、どうすればいいのでしょうか。
まずは、問題を挙げてきた人たちが、自分で解決できるようにそれをファシリテートするという態度を養っていくことです。生徒がわからない問題を持ってきたときに、「さあ、誰(who)だったらあなたの問題を一緒に解決してくれるかな」と教室にいる他の子どもたちの助けを本人が探すように見渡してみたり、「さあ、どこに行ったら上手くできるかな」「どれを使ったらわかるかな」と、場所(where)や方法(how)に就いてのアイデアを一緒に考えてみるのと同じです。問題を持っている人の主体者としての当事者意識を取り上げてはいけないのです。そのためにも、その人たちが失敗することを認め、そこから学ぶことを待つ態度が必要です。グループリーダーたちの教育の専門家としての当事者意識、保護者たちの子どもの権利の代弁者としての当事者意識を取り上げてはいけない…。
でも、保護者の学校運営に対する苦情に対しては、学校組織の中に、専門委員会や専門職員などの役職を置き、その人たちが、ある種の問題解決に専門的に取り組めるような体制を作っておくことも大切です。学校をシステムとして効率的に動かす。そのための専門組織です。
こうしたことをやらずに、あたかも「自分に任せていればなんでも解決できる」という顔をして偽りのリーダーシップを発揮するのは意味のないことです。自分一人が猿山になり、校長室から一歩も出なくなってしまう。それは、独善的なピラミッド型の独裁支配の始まり、民主的でインクルーシブな社会に向けて、その市民になるための教育をしている学校では、絶対にあってはならないことです。(続く)